名前

 ああ、春先の耳鼻科ってどうしてこんなに混んでいるんでしょう。会計を終えて外へ出ると辺りはもう真っ暗になっていました。見上げた時計は、6時55分。いけない!! あと5分で閉まってしまう。園子は夕闇に浮かぶ「薬」という看板を目指して駆け出しました。

 なんで花粉症なんかになっちゃったんだろう。ぜんぜん平気な人だっているのに・・・

「丸山・・ええと・・・エンコさん、丸山エンコさん・・・」

 そう呼ばれて園子は返事もせずに立ち上がりました。「そのこ」をエンコと読み間違われるのはいつものこと。面倒なので、たいていは訂正せずに黙っておくことにしているのです。薬を受け取ると、また立て続けにクシャミが3回出ました。とにかく食事をして、薬を飲まなくては。園子は自転車をぐんぐんこいで、家に帰りました。

 その夜、園子は夢を見ました。

 「お嬢様、お嬢様、今日は大事なお客様がお見えになる日です」

 天蓋付きのベッドから起き上がった園子は、あたりを見回しました。ひらひらのカーテンを開け放った窓からは、大きな庭が見えます。庭にはきれいに刈り込まれた木が行儀良く並んでいて、向こうの方には小さく門がのぞいています。ピシッと糊のきいた白いエプロンをした女の人が、銀のお盆にのせて朝食を運んできました。

 「まあ、今日はどうしてクロワッサンじゃないの? フランスパンは嫌いだと言ったじゃない」

 女の人は、

 「申し訳ありません。クロワッサンはカロリーが高いのであまりお出ししないようにと・・・」

 「仕方がないわね」

 たっぷり牛乳の入った大甘のロイヤルミルクティーでフランスパンとサラダを流し込むと、執事が言いました。

 「さあ、お嬢様、お召し物は何にいたしますか?」

 「何に、って・・・見てみないとわからないわ」

 執事がパンパン、と手をたたくと、またエプロンをかけた女の人が何人も入ってきました。手に手に服を下げています。胸のところにフリルのついたピンク色のワンピース、小花柄の長いスカートとこれもフリルのついた白いブラウス、目の覚めるような空の色をしたロングドレス・・・

 「どれも少女趣味ね・・・いいわ、今日はこれにしましょう」

 そこへ柔らかい音でベルが鳴り響きます。「・・・様がお見えになりました」

 着替え終わった園子を待っていたのは、この世のものとも思えない美男子でした。

 「今日こそは、いい返事がもらえると思ってきたんだ」

 「エンコさん、僕と結婚して下さい」

 そこで園子は言いました。

 「いいえ、私は・・・」

 目が覚めると、いつもの部屋、いつもの味噌汁の匂いのする朝でした。

 次の夜、また園子は夢を見ました。

 アンコールの拍手が、規則正しく鳴り響いています。舞台のソデに入った園子は、差し出されたタオルで汗を拭き、冷たい水の入ったボトルを受け取りました。スタイリストが園子の服を脱がせ、手早く新しい衣装に着替えさせていきます。

 「どうも調子が出ないわね、やっぱりあのドラムは替えた方がいいわ」

 「彼は日本で今一番のドラマーですよ」

 「でも私は気に入らないの。次のステージまでに変えてくれないと私はもう・・・」

 「またそんなワガママを・・・」

 「ワガママなんかじゃない。あんなドラムでは歌えないって言っているの。フィーリングが合わないのよ!」

 

 ちょうどその時、出番を知らせる声がかかりました。

 「エンコさん、どうぞ!」

 「いいえ、私は・・・」

 目が覚めると、またいつもの部屋、いつもの味噌汁の匂いのする朝でした。

 

 園子は都心のオフィスビルを見上げました。丸山コンツェルン、朝日に輝く看板の文字を見てためいきをつきながらビルに入ると、すれ違う人々はみな立ち止まって園子にお辞儀するのです。「社長、おはようございます」「おはようございます、社長」。口元に軽く笑みを浮かべながら、足早にエレベータに乗り込み8階のボタンを押しました。社長室と書かれたドアをあけると、どっしりとした木の机の前に座ります。秘書が入ってきて、机の上にドサリと書類の山を置きました。「社長、決済をお願いします。急ぎのものもありますので・・・」

 園子は印鑑を手にとると、一枚目の書類に判を押しました。紙に写った印面には古くさい書体で、こう書いてありました。

 「丸山エンコ」

 「いいえ、私は・・・」

 目が覚めると、また、いつもの部屋でいつもの味噌汁の匂いのする朝でした。

 園子は薬を返そうと思いました。どうもこの薬を飲んでから毎日おかしな夢ばかり見るようになったからです。しかし、何度行っても薬屋はシャッターが下りています。つぶれちゃったのかしら・・・でも、園子の性格からして、シャッターに書かれている「緊急時はこちらにお電話下さい」という番号に電話するなんてことは考えられません。そうして何日もの時間が過ぎていきました。

 そしてある夜、ついに園子を決心させるような恐ろしい夢が訪れたのです。

 園子は走っています。なぜ走っているのかわからないけれど、とにかく走らなければならないのです。息が苦しくなって止まろうとすると「エンコ、走れ」と、すぐ背後から声がします。そうだ、何かを探しているんだ。そう思い出して又走り出すと、暗闇に浮かぶ看板が見えます。あ、あの薬屋だ。そう思って飛び込むと中には誰もいません。思い切って声をかけました。「あのう、丸山園子です」すると園子がしぼり出した声の何十倍もの大きさで「丸山エンコです」「丸山エンコです」「丸山エンコです」とこだまが返ってくるのです。園子はその声に負けじと息を吸い込んで「いいえ、私は園子、丸山園子です」と言いました。するとまたその声がこだまになって「丸山エンコです」「エンコです」・・・そんなことを何度も繰り返して、最後に「まるやま・そ・の・こ・です!!」園子は大声で怒鳴りました。

 いつもの味噌汁の匂いのする朝。園子は全身にびっしょりと汗をかいて目覚めました。

 今日こそは、と意を決して授業が終わるとすぐに薬屋に向かいました。閉まっていれば番号をメモして電話をかけるつもりでした。ところが・・・予想に反して薬屋は開いています。中へ入って名前を告げると、「ああ、丸山園子さん。受け取りに来られないのでどうしたのかと思っていました」。係りの人はアッサリとそういって「丸山園子殿」と書かれた薬袋を差し出しました。

 返すつもりで持っていた元の薬袋をよく見ると、そこに書いてある名前は「丸山円子」。「あのう・・・これはどうしたら・・・?」と聞くと、係りの人は「ああ、こちらで処分します」といって側にあったゴミ箱にポイッと捨ててしまいました。

 次の日、友だちの勝子にその話しをしました。

 「あんたってホントにお人よしだねえ。いいか、今度からそんなときは私に言いなさいよ。すぐに文句言ってやるから」

 「いいよ。自分で言えるもん」

 自分で言える。園子は自信を持って、はっきりとそう思いました。だって夢の中であんなに練習したんだもん「いいえ、私は園子です」って。