「丘の野犬」―― 書き直せなかった読書感想文

 三輪先生、ごぶさたしています。二十数年前、新月小学校の三年二組だった浜田です。私のことを覚えていらっしゃいますか。

 先生は当時三十歳代前半、サッカーや水泳が得意なスポーツマンでした。「先生と君たちの間にある、目に見えないカーテンを取り除くんだ」と言って、突然授業をつぶして一時間まるまる生徒と語り合ったこともありましたね。そんな型破りなところが私は大好きでした。他の先生とは違って、本音でつきあってくれる先生だと、私たちは肌で感じていました。

先生が書かせた読書感想文のことを覚えていらっしゃいますか。私が選んだのは椋鳩十の「丘の野犬」。九州南部の小さな島で働く農夫が、一頭の野犬と出会い、友となり、そして最後には悲しい別れをする、そんな物語でした。動物が大好きで、クラスの飼育係りまで買って出ていた私にとって、動物を題材にした本を選ぶのは自然なことでした。シートン動物記、ファーブル昆虫記、ドリトル先生シリーズなどを読破し、読書力にも多少の自信がありました。

 しかしこの「丘の野犬」という物語は、動物と人間の関係を問いかけるだけのものではありませんでした。その当時は気づかなかった作者の意図、それは里に下りた野犬を通して浮かび上がる、人間と人間の醜い不信、不毛な争いを描くことだったのです。

 私はそこまで深く読みとることができませんでした。確かに小学校三年生にとっては難しい物語だったのです。私は、その難しさに気づくこともできずに、表面的な動物愛護精神でこの物語を読んで、すらすらと感想文を書いて提出しました。

 その日の午後、帰ろうとする私を先生は呼び止めました。

 「浜田、おまえは本当にこの本を読んだのか」

 「えっ。読みましたけど…」

ランドセルを背負ったまま、私はとまどいました。

 「こんなことが、この本に書いてあったか」

 「えっ…」

 「この本に何が書いてあったのか、言ってごらん」

 「…」

 私は一言も発することができませんでした。自分がこれで良いと思って提出した作文をこんな風に否定されたのはひどいショックだったし、先生が怖くて、何か言ったら怒られるのではないかとおびえて、何も言うことができませんでした。先生の口調は穏やかでしたが、決意がこもっていて有無を言わせないものがありました。知らず知らず、涙が出てきました。

 何分間沈黙が続いたでしょう。先生は私に大きなハンカチを渡し、「書き直して来なさい」と言って私を解放してくれました。私は家に帰って感想文を読み返しましたが、別に間違ったことを書いているとは思えませんでした。今にして思えば、別に間違ってはいない、その優等生的回答こそが先生は気に入らなかったのですね。拙い文章でもよいから、心が感じたままを表現して欲しかったのでしょう。

 しかしあの時の私は、それを理解するには幼すぎました。学校の勉強とは「○」がもらえる答えを書くことが目的だ、と信じていたからです。自分は作文が上手いと思っていました。でもそれは根っこを張らずにいきなり翼を得て飛んでいこうとする、むなしい文章だったのです。

 それがわかったのは二十歳すぎて、自分は自分探しの旅をしていると認識してからのことでした。ずっと納得できずに心の片隅にあった、あの放課後の教室の風景。先生が私に伝えたかったのは、「本を通して自分と出会え」というメッセージだったのですね。あの時書き直せなかった感想文に代えて、この手紙を先生に送ります。

 三輪先生、今も教壇に立っておられるのでしょうか。年輪を重ねてすばらしい教師として、たくさんの生徒の心をつかんでいることでしょうね。ますますのご活躍と健康を、遠い空よりお祈りしております。