哀れ蚊

夜中に目が覚めてしまった。AM2:30。やれやれ、明日も仕事だっていうのに・・・遅い台風がやってきた夜のことだった。

僕を目覚めさせたのは小さな羽音。プーーン・・・

羽音は近くなり、遠くなり、止んだかと思えば又耳元で鳴り始める。気がつけば首筋に小さくふくれあがった刺し跡。僕は意を決して明かりをつけた。これ以上貴重な睡眠時間を削られてはたまらない。羽音が一番近くなったところを見計らって僕は素早く手を伸ばし、羽音の主を捕らえた。

握りしめた手を開いてみると、そこには案の定、一匹の蚊がいた。

  いつもならもう一度しっかり握りしめてトドメをさすのだが、ふと「哀れ蚊」という言葉が頭に浮かんできた。子どものころ、母から聞かされた言葉だ。よくは覚えていないが、晩秋の蚊は殺してはいけないということだったらしい。

 「頼むからもう刺さないでくれよ」。僕はそうささやいてから蚊を解放し、明かりを消して再び眠りについた。

 僕は夢を見た。先ほど逃がしてやった蚊が美しい女性の姿になって現れたのだ。我ながら単純なヤツだと感心しながら、僕は夢を見ていた。美しい蚊は蚊の鳴くような小さな声で、

 「先ほどはありがとうございました。お礼に・・・」

ほうら、来た。再び自分の単純さに夢の中で感心しながら、僕は考えた。蚊の羽で着物を織るわけには行かないだろうし、竜宮城へ連れて行ってくれるのか、かえりにもらうのは大きいツヅラ、それとも・・・いや、それはスズメの話だったかな?

「・・・ということで、これで失礼します」

「ちょっと待って!! 今何て言ったの?」

「『夢を見せてさしあげます』と申しました」

「夢なら今見ているじゃないか」

「あなたが一番美しいと思う景色を、見せてさしあげます」


 僕は今まで見た美しい景色を頭の中でプレビューした。新婚旅行で行ったナイアガラの滝。沖縄の海に沈む夕日。宝石箱をひっくり返したような夜景の香港。富良野の雪景色・・・。

 さて、一番美しい景色とは・・・。僕は少しわくわくしながら、夢の中で再び眠りについた。

 夜明け前。白い息を吐きながら、僕は走っていた。自分の呼吸が作り出す規則正しいリズムだけが、誰もいない道に響いている。

青からうすむらさきへ、うすむらさきから白へ、そして薄いだいだい色へ。東の空は刻々と色を変えていく。そして大きな橋のたもとに辿りついた僕は、立ち止まって深呼吸をした。橋の向こうは君の住む街。いつかこの橋を渡って君に会いに行く。そう思うだけで僕の心は満たされていった。今はできなくても、必ずいつかその時が来る。理由もなく、ただ確信だけがあった。そしてオレンジ色に輝く太陽が山の端から顔を出したとき、僕は世界のすべてを所有したような全能感に包み込まれた。

そこで夢は終わりだった。夢の中の僕は中学生か高校生のようだったが、そのころ僕の住んでいた町には大きな川も橋もなかったし、ランニングの習慣もなかった。いつまでも子どもじみていた僕にあこがれの人なんて上等なものができたのは、もっと先の話しだ。
 それでもあのリズムは自分の身体から出てくるものだったし、あの朝焼けの色もどこかで見覚えがある。あれは僕が今まで見た中で一番美しい景色、ではなくて、僕の中にある一番美しいイメージを映像にしたものだったのか・・・と思い始めたところで、目覚まし時計がけたたましく一日の始まりを告げた。

僕は枕元に落ちていた蚊のなきがらを拾いあげ、ドアを開けた。一夜を共に過ごした蚊を、せめて土にでも埋めてやろうかと思ったのだ。外へ出たとたんに台風明けの強い吹き返しがゴウッと吹いてきて、僕の手のひらから蚊をさらった。世界で一番美しい景色を見せてくれた蚊は、一瞬でどこかへ行ってしまった。